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本気でAOR Night 特集!

最終更新: 2月10日


音響チームが携わらせて頂いたイベント

本気でAOR Night で選曲されたものを中心に、ブログ記事にしてみました。

スタジオセレクションでもあるこちら、スタジオスタッフがどんな音楽に興味があり、どんな音楽を聞いているのか、という特集も先々でできたら面白いなと思っております。

不定期更新になりますが、どうぞよろしくお願いいたします!!

AORとは

AORとは、Album-Oriented Rock(アルバム・オリエンテッド・ロック)、Adult-Oriented Rock(アダルト・オリエンテッド・ロック)の略語であり、音楽のジャンルの一つである。

Album-Oriented Rock:アルバム・オリエンテッド・ロック

アルバム全体としての完成度を重視する、Album-Oriented Rock

米国では、「シングルチャートを意識したものではなく、アルバム全体としての完成度を重視したスタイル」の意味で「Album-Oriented Rock」の語も使用[1]された。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、ピンク・フロイドの「狂気」やイエスの「こわれもの」、ザ・フーの「トミー」、キンクスの「ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ」などが該当する。

Adult-oriented Rock:アダルト・オリエンテッド・ロック

アダルト現代音楽、Adult-Oriented Rock

「AOR」は1980年代の日本で音楽用語として用いられた。ボビー・コールドウェルの「Heart of Mine」が1988年に紹介される際、「Adult-oriented Rock」を「大人向けのロック」と解釈された。ボズ・スキャッグス[2]やボビー・コールドウェル、ルパート・ホームズ、スティーリー・ダン、クリストファー・クロス、1974年以降のシカゴなどが該当する。音楽性の近い音楽用語としては、クワイエット・ストーム[3]、ソフト&メロウ、アダルト・コンテンポラリー、アーバンなどがある。ボズ・スキャッグスはかつてルーツ・ミュージック志向のロックを扱っていたが、後年にTOTOを結成するスタジオミュージシャンらを起用した1976年発表のアルバム『シルク・ディグリーズ』がヒットして、「AC」シンガーとして知られるようになった。

※AC=アダルト・コンテンポラリー

<wikipedia より引用>

ボズ・スキャッグス

ボズ・スキャッグス(William Royce Scaggs, 1944年6月8日 - )は、アメリカのミュージシャン。1970年代後半から1980年代にかけて流行した、アダルト・コンテンポラリーを代表するシンガー。

1944年オハイオ州カントン生まれ。

少年時代をオクラホマ州やテキサス州で過ごす。

12歳のときにギターを始め、セント・マークス・スクールでスティーヴ・ミラーと出会う。

彼にギターを習いながらヴォーカリストとしてバンド活動を始めた。

2人は共にウィスコンシン大学に進み、大学時代もブルース・バンドを組んだ。

1960年代前半、白人によるリズム&ブルースが盛んだったイギリスのロンドンへ渡る。

いくつかのバンドでプレイした後、ソロとしてヨーロッパを遠征中スウェーデンのポリドール・レコードの目にとまり、1965年にデビュー作『ボズ』を発表する。

帰国後、サンフランシスコを拠点に活動し、スティーヴ・ミラー・バンドのファースト・アルバム『未来の子供達』とセカンド・アルバム『セイラー』にギタリストとして参加。

いずれの作品でも、一部の曲ではリード・ボーカルも兼任した。これで評価を得たボズは、1969年にアトランティック・レコードからアメリカでのデビューを果たすが、しばらくはセールスに恵まれなかった。

R&B色が濃い音楽を発表し続けていたボズであったが、1976年、ファンキーでクロスオーバー的な洗練されたサウンドの『シルク・ディグリーズ』を発表。

これが全米2位を記録し、500万枚以上を売り上げた。アルバムからも「ロウ・ダウン」(全米第3位)、AORのスタンダード曲「ウィ・アー・オール・アローン」の大ヒットを放つ(このアルバムに参加したセッション・ミュージシャンたちは、後にTOTOを結成)。

次作の『ダウン・トゥー・ゼン・レフト』、『ミドル・マン』も続いてヒットした。

1980年に、トヨタ・クレスタの初代モデルのCMソングに、「You Can Have Me Anytime」(邦題:「トワイライト ハイウェイ」)が採用された。

その後、ヒットチャートからはしばらく遠ざかっていたが、1988年発表のアルバム『アザー・ロード』の収録曲「Heart of Mine」が、そのミュージック・ビデオの効果もあり、翌1989年に大ヒット、カムバックを果たした。『アザー・ロード』は日本ではオリコン洋楽チャートで1988年5月30日付から通算3週1位を獲得した。日本では未だに根強い人気を誇っている。

ピーター・セテラがエイミー・グラントとデュエットした曲「Next Time (I Fall)」など、メローで大人向けのバラード音楽が流行し、ボズの「Heart of Mine」のヒットをきっかけに日本で、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)という語がその年の暮れに発生した。1990年のジャパン・ツアーに際して日本の広告代理店はAORという語とボズ=AORの代表という宣伝をテレビで流した。これにより、日本においてAORというひとつのジャンルを形成するに至る。なお、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)は日本独自の呼び方で、アメリカではAC(アダルト・コンテンポラリー)、MOR(ミドル・オブ・ザ・ロード)などと呼ばれる。

2003年の『バット・ビューティフル』以降はジャズ・スタンダードに傾倒を始め、ジャズ・セットでのツアーも行っている。

2013年、スティーヴ・ジョーダンをプロデューサーに迎え、メンフィスのロイヤル・スタジオで録音したアルバム『メンフィス』を429レコードよりリリース。3月23日付Billboard 200チャートで初登場17位を記録した。

<wikipedia 調べ>

Boz Scaggs Lowdown(1976)


Boz Scaggs - Hollywood


ネッド・ドヒニー(Ned Doheny、 1948年 - )はアメリカ合衆国のミュージシャン。シンガーソングライター。

AORサウンドを代表する一人。

本国での知名度は低いものの、日本では非常に人気が高い。

特に、代表曲「恋は幻(Get It Up For Love)」は、日本のバンド東京事変にもカバーされている。

チャカ・カーンに「恋のハプニング(What Cha' Gonna Do for Me)」を提供したことでも知られる。後に自身のアルバム「ライフ・アフター・ロマンス」でもセルフカバーしている。

<wikipedia 調べ>

Ned Doheny - Get It Up For Love(1976)


クリストファー・クロス(Christopher Geppert Cross、1951年5月3日 - )は、アメリカ合衆国 テキサス州サンアントニオ生まれのシンガーソングライター。

トレードマークはフラミンゴ。

1979年、アルバム『Christopher Cross』(邦題『南から来た男』)でデビュー。

デビュー時はコンサートもせず、素顔を公開していなかった。

これはクリストファー自身の意向によるものであった。

天使のようなハイトーンボイスで一躍AORを代表する歌手となる。

同アルバムとシングル『セイリング(Sailing)』は1981年のグラミー賞の五部門を独占。

とくに主要四部門(最優秀アルバム賞:Album of the Year、最優秀レコード賞:Record of the Year、最優秀楽曲賞:Song of the Year、最優秀新人賞:Best New Artist)の同時受賞はグラミー賞史上初の出来事だった(最後の最優秀新人賞を同時に受賞することが難しい。後に2003年のグラミー賞でノラ・ジョーンズが達成したが、最優秀楽曲賞は作曲者であるジェシー・ハリスに送られたため、同一人物での同時受賞は2015年現在もクリストファー・クロス一人である)。

この曲は、ビルボード(Billboard)誌で1980年8月30日に週間ランキング第1位を獲得。

1980年ビルボード誌年間ランキングでは、第32位。

翌年にはスティーブ・ゴードン(Steve Gordn)監督・脚本の映画「ミスター・アーサー(Arthur)」の主題歌「ニューヨーク・シティ・セレナーデ(Arthur's Theme (Best That You Can Do))」でアカデミー歌曲賞をバート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガー、ピーター・アレンとともに受賞。

「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」は、ビルボード(Billboard)誌で1981年10月17日に週間ランキング第1位を獲得。

1981年ビルボード誌年間ランキングでは、第12位。この曲は日本でも馴染みの深いナンバーであり、日本のオリコン洋楽シングルチャートで1981年12月7日付から6週連続1位を獲得した。

5歳~9歳の幼少期に、軍医だった父親の仕事の関係で日本(東京代々木)に住んでいたことがある。

<wikipedia 調べ>

Christopher Cross / All Right(1983)


Pagesは1970年代後半から1980年代初めにかけて活動していたアメリカのポップロックバンド。

バンドはリチャード・ペイジとスティーブ・ジョージで構成され、さまざまなスタジオ・ミュージシャンの支持を受けたボーカルとキーボードで構成。

Pagesはその洗練されたポップとジャズフュージョンのサウンドで高く評価されたが、グループは商業的な成功を収めず、3つのスタジオアルバムをレコーディングした後解散。

Pagesは、後にバンドMr. Misterを結成

ペイジとジョージは新たなメンバーにスティーブ・ファリスやパット・マステロットを迎えてMr.ミスターを結成、1984年にデビューした。

この直後、リチャード・ペイジはボビー・キンボールの後釜としてTOTOのボーカリストに、ピーター・セテラの後釜としてシカゴのボーカリスト/ベーシストに誘われた。

両者とも超大物バンドであり、ペイジにとっては大出世の話だったが、自身のバンドを続けるためにいずれも断っている。

1985年、2作目のアルバム「ウェルカム・トゥ・ザ・リアル・ワールド」からシングルカットされた「ブロークン・ウィングス」が全米1位を記録。

続くシングル「キリエ」も1位、アルバムも1位の大ヒットとなり、バンドはブレイクした。

しかし1987年の「ゴー・オン」は意欲作だったもののセールスに恵まれなかった。

このアルバムには、リチャード・ペイジたちが矢沢永吉に提供した「サムシング・リアル」をカバーしている。

1989年にスティーブ・ファリスが脱退。

バジー・フェイトンが参加し、次作「Pull」をレコーディングしたが、レコードレーベルがリリースを拒否し、お蔵入りとなってバンドは解散した。

なお、お蔵入りとなった「Pull」はその後2010年にリチャード・ペイジの自主レーベルからリリースされ、20年の時を経て晴れて日の目を見ることとなった。

その後、それぞれのメンバーはスタジオ・ミュージシャンとしての活動を再開した。

リチャード・ペイジはマドンナの「I'll Remember」の作曲を手助けしたのを機に著名なプロデューサー、パトリック・レナードとバンド「サード・マチネー」を組み、アルバム「Meanwhile」を1994年にリリース、その後はソロとして 1996年に「シェルター・ミー」を出すが、こちらもセールスに恵まれなかった。

2003年には、竹内まりやの「純愛ラプソディ」を英語でカバーしている。

また、2012年からはリンゴ・スターのリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドにもベーシストとして参加。

2013年2月に行われた日本公演では「キリエ」「ブロークン・ウィングス」などを披露した。

スティーヴ・ファリスは1997年にはホワイトスネイクのツアーにギタリストとして参加、その他にも2000年にはドン・ヘンリーのツアーに参加もしている。

スティーヴ・ジョージは1991年-1997年までケニー・ロギンズの音楽ディレクターとしての仕事をし、1999年にはジュエルのツアーに参加。それ以後はソロアルバムをリリースする計画をすすめている。

パット・マステロットはMr. ミスター解散後、キング・クリムゾンのドラマーとして活躍。

<wikipedia 調べ>

Pages - You Need A Hero(1981)


マンハッタン・トランスファー(The Manhattan Transfer)はアメリカ合衆国のジャズ・コーラス・グループ。男女各2人による4人編成。卓越したボーカル技術とハーモニーを持ちながらも親しみやすい音楽性でポップ分野でも人気を博している。

1969年に結成されるが、1971年にいったん解散する。

1973年にティム・ハウザーをリーダーとして、アラン・ポール、ジャニス・シーゲル、ローレル・マッセーの4人で再結成される。

ベット・ミドラーに認められ、1975年にデビュー作『Operator』を発表する。

1976年発売のカバー曲『タキシード・ジャクション(英語版)』で注目を集め、幅広いレパートリーと卓越したハーモニーとで人気を博する。

1978年交通事故で大けがをしたマッセーに代わり、1979年にシェリル・ベンティーンが正式加入して現在のメンバー構成となる。

同年、テレビ番組『トワイライト・ゾーン』の同名テーマ曲をジェイ・グレイドンのプロデュースでディスコ調にカバーし、これがヒットしたことで広く注目を浴びるようになる。

1980年にはウェザー・リポートのカバー曲『バードランド』でグラミー賞の最優秀ジャズ・フュージョン・ヴォーカル賞とヴォーカル編曲賞を受賞する。なお、1982年にはライヴでウェザー・リポートとの共演も行っている。

1981年には『ボーイ・フロム・ニューヨーク・シティ』がポップチャートでも大ヒットし、最優秀ジャズ・ヴォーカル賞など3部門でグラミー賞を受賞した。その後も1983年1985年1987年1990年にグラミーの主要な賞を獲得している。

日本では1977年に伊勢丹のCMソングとして、『女王陛下のお買い物』(作詞:伊藤アキラ、作曲:樋口康雄)を演奏し、1980年代前半にサントリーブランデーのCMに出演した。

頻繁に来日公演しており特に2000年からは毎年来日している。

来日公演のライブ盤や日本限定盤アルバムもいくつかリリースしている。

<wikipedia 調べ>

The Manhattan Transfer - Nothing you can do about it(1979)

Nothing You Can Do About It はジェイ・グレイドンとデビッド・フォスターの作品で、彼らのユニット「Airplay」のアルバムにも収録されている。


シカゴ(Chicago)は、アメリカのロックバンド。ロックにブラスを取り入れた形式のバンドとして先駆的な存在であり、同じ ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデュースしたバンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズやバッキンガムズ(英語版)などと共に“ブラス・ロック”と呼ばれた。

シカゴで結成されたが、プロ・デビュー後の活動拠点はロサンゼルスである。

1967年にデ・ポール大学の学生たちが中心になり、前身バンドである"ビッグ・シング"を結成。

1969年にジェイムズ・ウィリアム・ガルシオのプロデュースによりコロムビア・レコードからデビュー。

その後、"シカゴ・トランジット・オーソリティ(シカゴ交通局)"から"シカゴ"とバンド名を変えたが、これはシカゴ交通局からの苦情がきっかけであった。

バンドはデビュー・アルバムから3作連続で2枚組アルバムを発表。1970年にはシングル「25 Or 6 To 4(邦題: 長い夜)」が大ヒットした。

その後も「ぼくらに微笑みを」(日本では72年にヒット)「クエスチョンズ67アンド68」 「ビギニングス」「Does Anybody Really Know What Time It Is?(一体現実を把握している者はいるだろうか)」「サタデイ・イン・ザ・パーク」「ダイアログ」「俺たちのアメリカ」「愛のきずな」「君とふたりで」などを発表し、シカゴは人気ブラス・ロック・バンドとなる。

1972年の大統領選挙ではポール・サイモンらとともに、反戦候補のジョージ・マクガヴァンを熱心に支援したが、マクガヴァン候補は当選できなかった。

初期には政治的な歌詞を持つ曲が多かったが、徐々にその特徴は影を潜めた。74年のアルバムはブラス・ロックを放棄したかのような内容で、ロック・ファンを失望させた。

75年には「オールド・デイズ」などで一時的にブラス・ロックを復活させたが、その後はAOR、歌謡ポップス路線を歩むことになる。

1976年にはラブ・バラードである「If You Leave Me Now(愛ある別れ)」が全米ナンバーワンになった。77年には「朝もやの二人」もヒットした。

その後、バンドの中枢であったギタリストのテリー・キャスの拳銃暴発事故(自動式拳銃の薬室に残った弾丸の誤発射)による死亡、プロデューサーであったガルシオの解雇などによりグループの方向性は変化した。

<wikipedia 調べ>

Chicago - Hard To Say I'm Sorry(1982)


クインシー・ディライト・ジョーンズ二世(Quincy Delight Jones II、1933年3月14日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家、編曲家。1950年代から第一線で活躍を続け、グラミー賞をはじめとする音楽賞を多数受賞している。

ブラックミュージック界のみならず、アメリカのポピュラー音楽界における著名人の一人である。

また、米FOXテレビの人気コメディ番組MADtvの製作総指揮も担当している。

イリノイ州シカゴ出身。

少年時代にトランペットを学ぶ。

10歳の頃にワシントン州に転居。

そこで盲目のピアノ・プレーヤーの少年レイ・チャールズと知り合い、ともにバンド活動を始める。1951年、バークリー音楽大学を卒業後、トランペット・プレーヤーとしてライオネル・ハンプトン楽団[1] に参加。

そこでアレンジャーとしての才能を見出され、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンらジャズ界のスターのアレンジを手がけるようになった。

1957年にパリへ渡り、作曲・音楽理論などを学ぶ。

フランスのマーキュリー・レコード社長の知己を得てヨーロッパでも数々のビッグバンドを率いて活躍し、自身のバンドでも成功を収めた。

1964年には、マーキュリー・レコードニューヨーク支社の副支社長となり、同時に映画音楽の分野へも活動の幅を広げる。

1960年代からはプロデューサーとしても活躍し始め、1963年にレスリー・ゴーアの「涙のバースデイ・パーティー」をビルボード1位にしたのをはじめ、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラらのプロデュースを手がけた。

また映画「夜の大捜査線」や「ゲッタウェイ」のサウンド・トラックも評判となった。

テレビ映画、ドラマでは『鬼警部アイアンサイド』や『ルーツ』のサウンドトラックも担当した。

自身の作品でも数々のヒット作を残し、1978年にはファンキー・ディスコ調の『スタッフ・ライク・ザット』がポップ・チャートでもヒットした。

<wikipedia 調べ>

Quincy Jones - Ai no corrida(1981)


チャカ・カーン(Chaka Khan、本名:Yvette Marie Stevens、1953年3月23日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の女性R&B歌手。

驚異的な歌唱力で1970-80年代にR&Bの女王と呼ばれ、以降も精力的に活動。

非常にアクティヴな性格で、レコーディングの際、アレンジが気に入らないと、殴りあうこともあったらしい。

ホイットニー・ヒューストン、メアリー・J.ブライジなど、多くの女性歌手に多大な影響を与えた。女性歌手ではアレサ・フランクリンと共にR&Bを代表する存在と言われる。

芸名のChakaはアフリカの言語で「炎」「赤い」という意味。

本来は「シャカ」と発音するのが正しいようだが日本では「チャカ」で通っている。

Khanは最初の夫の姓。

実弟にシンガー・ベーシストのMark Stevens、実妹に、シンガーのTaka Boomがいる。

娘のIndira Khanもシンガー。

1973年、ファンクバンドルーファス(Rufus)のボーカルとしてデビュー。

翌年スティーヴィー・ワンダーが提供した"Tell Me Something Good"が大ヒットし、以降もヒットを連発した。

1978年には名プロデューサーArif Mardinの元でソロデビュー。

デビュー曲"I'm Every Woman"は後にホイットニー・ヒューストンがカバーした楽曲としても知られている。

1982年にはRufusが解散してソロに専念する。

解散ライブアルバムにボーナストラックとして収録された新曲"Ain't Nobody"がヒットし代表曲の一つになった。

1984年にプリンスのカバー"I Feel for You"(邦題「フィール・フォー・ユー」)が大ヒット(全米3位)。

ラッパー・メリー・メルを起用したヒップホップの先駆けとなる先進的なサウンドで、同年のデイヴィッド・フォスター作のバラード"Through the Fire"と共にヒットした。

1980年代後半以降は商業的に不遇だが、1989年発表のクインシー・ジョーンズプロデュースでレイ・チャールズとのデュエット曲"I'll Be Good to You"がR&Bチャート1位のヒットになった。

1992年のアルバムThe Woman I Amはグラミー賞・最優秀女性ソロR&Bアルバム賞を獲得した。

この頃はドイツに在住していたことがあり、一部の楽曲では現地のプロデューサーを起用している。日本では"Facts of Love"がトヨタ・RAV4のCMソングに使用された。

R&Bのみならず様々なジャンルをこなす音楽性の幅広さで知られ、近年はジャズ歌手としても高く評価されている。1980年代末にはマイルス・デイヴィスと度々共演した。

1995年発売予定だったアルバムDare You to Love Meが発売中止になるなどの経緯を経て、1996年のベスト・アルバムを最後にメジャー・レコードとの契約を解消。

1998年には彼女と同じようにワーナーと袂を分かったプリンスのインディーズ・レーベルNPGからCome 2 My Houseをリリースした。

2002年、映画『永遠のモータウン(英語版)』に提供したマーヴィン・ゲイのカバーWhat's Goin' onがグラミー賞を受賞。

2004年にはイギリスのサンクチュアリ・レコードよりジャズ・スタンダード集Classikhanをリリース。

2006年、ソニーBMG傘下の新レーベルBurgundy Recordsと契約した。

2007年9月(日本盤は10月)に同レーベルから新アルバムFunk Thisを発売。

ビルボード総合アルバムチャート初登場15位(R&Bチャート5位)と自身最高の初登場順位を記録し、約10年ぶりにシーンの第一線に返り咲いた。メアリー・J.ブライジをフィーチャーした"Disrespectful"がクラブプレイチャートで1位を獲得した。

第50回グラミー賞ではFunk Thisが最優秀R&Bアルバム、"Disrespectful"が最優秀R&Bグループに輝き通算10回目の受賞となった。

現在でも若い頃と変わらない声量やハイトーンボイスを保ち、リリースは少ないが、多数のアーティストの作品に客演したり、精力的なライブ活動を続けている。

日本に関連するものとしては、1996年に日本のアーティストCHAGE&ASKAの楽曲を世界中の一流アーティストがカバーするトリビュートアルバム「one voice THE SONGS OF CHAGE&ASKA」に参加するなどしている。

<wikipedia 調べ>

Chaka Khan / What Cha Gonna Do For Me(1981)


アル・ジャロウ(Alwyn Lopez "Al" Jarreau、1940年3月12日 - 2017年2月12日[1])はアメリカのジャズ・ボーカリスト。ポップ分野でも活躍。

広い声域に、ソフトかつ伸びやかな歌声と卓越したボーカル・テクニックを持ち、中でもスキャットは特技ともいえるほど優れた個性を確立した。

ウィスコンシン州ミルウォーキー出身。

アイオワ大学で心理学を学び、数年間はカウンセラーの仕事をしていた。

後にロサンゼルスへ渡り、ジャズ・クラブで歌い始める。

1975年にワーナー/リプリーズからデビュー。

1978年にLook to the Rainbowが、1979年にAll Fly Homeがグラミー賞の最優秀ジャズ・ボーカル・アルバム賞を受賞した。

1980年からはジェイ・グレイドンやナイル・ロジャース、ナラダ・マイケル・ウォルデンらのプロデュースの下、AOR/ブラック・コンテンポラリー路線でポップ分野でのヒットも生み、1982年にはBreakin' Awayでグラミー賞の最優秀男性ポップ・ボーカル賞と"(Round, Round, Round) Blue Rondo A La Turk"で最優秀ジャズ・ボーカル賞を、1993年にはHeaven and Earthで最優秀R&Bボーカルを受賞した。

この功績によりジャズ、ポップ、R&Bの3部門にまたがってグラミー賞を獲得した、最初の個人となる。

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分(ウィリー・ネルソンの次、ブルース・スプリングスティーンの初回の前)でリードボーカルをとった。

1999年にワーナー/リプリーズからヴァーヴ傘下のGRPに移籍。

ジャズ寄りの作品も発表している。

2006年にはギタリスト兼ヴォーカリストのジョージ・ベンソンとの共作、"Givin' It Up"を発表しており、自己のヒットナンバー、"Mornin'"をカバーしている。

2010年7月に公演先のフランスで呼吸障害で倒れ、病院に搬送。

「重篤な状態」とも報道されたが、順調に回復。

9月には日本で元気な姿で公演も行われた。

2017年2月12日、ロサンゼルスの病院で76歳で死去。

<wikipedia 調べ>

Al Jarreau - Closer To Your Love(1981)


ドゥービー・ブラザーズ (The Doobie Brothers) はアメリカ合衆国のロックバンド。

1971年のデビュー以来、解散時期を挟みながらも現在まで第一線で活動し続ける人気グループ。

1960年代後半から1970年代まで、アメリカ音楽界で大きなムーヴメントとなったウェストコースト・ロックを代表するバンドのひとつ。

デビュー以来3,000万枚以上のアルバム・セールスを誇り、1979年のシングル「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」でグラミー賞を受賞。

2004年にボーカル・グループの殿堂入りを果たした。

<wikipedia 調べ>

The Doobie Brothers - Here To Love You(1978)


ボビー・コールドウェル(Bobby Caldwell、1951年8月15日 - )は、アメリカのミュージシャン。1970年代から1980年代にかけて流行したAORサウンドを代表するシンガーの一人。

ニューヨーク・マンハッタン生まれ。

1978年のデビュー曲「風のシルエット(What You Won't Do for Love)」がヒットし、当時流行していたAORの新星として脚光を浴びる。洗練された音の世界を持ちつつも、多くの初期AORシンガーのようにボーカルスタイルはR&B色が濃く、ブルー・アイド・ソウルの歌手として分類されることもある。

また作曲家としてボズ・スキャッグスに「ハート・オブ・マイン(Heart of Mine)」、ピーター・セテラに「ネクスト・タイム(Next Time I Fall)」、「ステイ・ウィズ・ミー(STAY WITH ME - 邦題:ステイ・ウィズ・ミー song for KA・GU・YA・姫)」(映画『竹取物語』主題歌)などのヒット曲を提供(いずれも後にセルフカバー)している。

1980年に彼が所属していたTK Recordsが倒産し、本国ではプロモーション活動がままならなかった影響か、1980年代以降はアメリカでは振るわずも、日本では非常に人気が高く、AOR界ではクリストファー・クロスやボズ・スキャッグスと並び立つ存在。

1990年代にオンエアされたニューヨークの夜景をバックに「Stay with Me」「Heart of Mine」「Come to Me」が流れるパーラメント(たばこ)のCMは、彼のイメージを象徴する一作でもある。

2015年にはシカゴの「サタデイ・イン・ザ・パーク(Saturday In The Park)」をカバーしている。

<wikipedia 調べ>

What You Won't Do For Love - Bobby Caldwell


ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick、本名 Marie Dionne Warrick マリー・ディオンヌ・ワーリック、1940年12月12日 - )はアメリカの黒人女性歌手。

「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第79位。

バート・バカラック作品の歌い手として、またホイットニー・ヒューストン(2012年2月11日死去)の従姉妹としても知られる(ヒューストンの叔母という説もあるが、これは誤りである)。

姉妹は共にR&Bシンガーのディー・ディー・ワーウィック(英語版)(2008年10月死去)、ジュディ・クレイ(英語版)(義理の姉妹。2001年7月死去)。

ニュージャージー州イーストオレンジ出身。

ハートフォード音楽大学に於いて主専攻で音楽教育、副専攻でピアノを専攻する。

ニューヨークのレコーディングスタジオでバックコーラスやデモ歌手をしている時に作曲家のバカラックと出会い、大学卒業後に歌手として本格的に活動を始め、1963年にデビュー。

1964年に「ウォーク・オン・バイ」のヒットで脚光を浴び、1967年に「あなたに祈りをこめて(小さな願い)(I Say a Little Prayer)」のヒットを放ってからは、「サン・ホセへの道(英語版)」、「恋よさようなら(I'll Never Fall in Love Again)」など、現在もスタンダードとして親しまれているバカラック=ハル・デヴィッド作品で続けざまにヒットを放った。

1970年代においては、1974年にスピナーズとの共演で「ゼン・ケイム・ユー」がNo.1になるもののしばらく不振だった。

しかし、1979年にバリー・マニロウのプロデュースによる「涙の別れ道(I'll Never Love This Way Again)」が久々のヒット曲となりグラミー賞を受賞。

1980年代に入ると1982年にバリー・ギブ制作に依る「ハートブレイカー」がヒット、同曲を収録したアルバム『ハートブレイカー』はノルウェーのアルバム・チャートで10週連続1位を獲得した。1985年にはUSA for AFRICA のウィ・アー・ザ・ワールドに参加するなどの活躍を見せる。

1986年にはバカラック&キャロル・ベイヤー・セイガーのライティングコンビによるグラディス・ナイト、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダーとの共演作「愛のハーモニー」を大ヒットさせた。

2002年、マイアミ空港でマリファナ所持の容疑で逮捕された。

電話による占いサービス(ダイヤルQ2のようなもの)の宣伝番組で司会者を務めていたことがある。

2006年、自身のヒット曲をカバーしたCD『マイ・フレンズ・アンド・ミー〜バート・バカラックへの想い』を発売。

グロリア・エステファン、グラディス・ナイト、オリビア・ニュートン=ジョン、シンディ・ローパーらと共演した。

2008年、ゴスペル集『Why We Sing』を発売。ゲストは妹のDee Dee、他 BeBe Winance 等。ゴスペル集は1969年の『Soulful』についで2度目である。

2013年3月21日、ニュージャージー州の破産裁判所に自己破産を申請。負債総額は1070万ドル余り。

<wikipedia 調べ>

Dionne Warwick - For You (1982)


スティーリー・ダン(Steely Dan)は、アメリカ合衆国出身のジャズ・ロックバンド。

ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーによるデュオ体制で活動し、世界的な成功を収めた同国を代表するグループ。2017年にベッカーが死去し、以降はフェイゲンのソロユニットとして継続している。

2000年度『グラミー賞』受賞。2001年『ロックの殿堂』入り。

ロックやポップスを基調としながら、ジャズ的な代理コードや意表をつくコード進行で曲にひねりを加え、一流のスタジオ・ミュージシャンを駆使した高度なアンサンブルを構築、その独特な世界観は、多くの同業者に多大な影響を与えた。

テクニカルな面が強調されがちだが、1950年代のジャズやR&Bが持つフィーリングを重視しており、ドナルド・フェイゲンの個性的な歌声と奇妙で小説的な難解な歌詞との取り合わせもまた、スティーリー・ダンの個性を際立たせる非常に重要な要素となっている。

ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはニューヨークのバード・カレッジ在学中に知り合い、共同で曲作りを始める。カレッジ卒業後(ベッカーは中退)2人は作曲家として活動するが仕事には恵まれず、ジェイ&ジ・アメリカンズのバックミュージシャンなどで糊口を凌いでいた。

この頃に作られたデモテープは、後に「ベッカー&フェイゲン」名義の作品集としてレコード、CD化されている。

ようやくABCレコードのプロデューサーのゲイリー・カッツに才能を見出された2人はロサンゼルスに移住、バンドとしてレコード・デビューするために旧知のミュージシャンを呼び寄せ、スティーリー・ダンを結成した。

バンド名は、ウィリアム・S・バロウズの小説「裸のランチ」に登場する男性器の張型「Steely Dan III from Yokohama」に由来する。

デビュー当時のメンバーは、ドナルド・フェイゲン(ボーカル、キーボード)、ウォルター・ベッカー(ベース)、デニー・ダイアス(ギター)、ジェフ・バクスター(ギター)、ジム・ホッダー(ドラム、ボーカル)、デイヴィッド・パーマー(ボーカル)。

主なスタッフにゲイリー・カッツ(プロデューサー)、ロジャー・ニコルズ(エンジニア)。

1972年発表のデビュー・アルバム「キャント・バイ・ア・スリル」からシングル・カットされた「ドゥ・イット・アゲイン」は全米6位の大ヒットを記録、スティーリー・ダンは幸運なスタートを切った。

プロのミュージシャンとなればライブ活動は必要不可欠だが、本来作曲家としての活動を望んでいたベッカーとフェイゲンは肉体的にも精神的にもきついライブを嫌い、それがやがて他のメンバーとの軋轢を生む。

また作品を追うごとに理想とするサウンドとバンドの演奏力の差が明らかになると、メンバーの感情を無視して外部のスタジオ・ミュージシャンを積極的に起用するようになり、バンドとしての一体感は失われていった。

1974年発表のアルバム「プレッツェル・ロジック」からシングルカットされた「リキの電話番号」は全米4位の大ヒットを記録、スティーリー・ダンの名声はますます高まる。

しかしすでにこの頃はバンド形態は崩壊寸前、同年にジェフ・バクスターとジム・ホッダーがクビにされ、ライブ活動を停止した(デイヴィッド・パーマーは既にクビ)。

なおこの年のライブではマイケル・マクドナルド、ジェフ・ポーカロがツアーメンバーとして参加している。

以降はスタジオ・レコーディングのみの活動に専念、トム・スコット、ラリー・カールトン、チャック・レイニー、バーナード・パーディー、スティーヴ・ガッドら主にジャズ・フュージョン系の売れっ子ミュージシャンを多数起用し、クロスオーバー的な洗練された音作りを指向するようになる。

1977年発表のアルバム「彩(エイジャ)」は全米3位、200万枚を売り上げる大ヒットを記録した彼らの代表作である。

東西の一流スタジオ・ミュージシャンを贅沢に起用して洗練さを極め、グラミー賞最優秀録音賞を獲得するなど、評論家からも絶大な支持を受け、スティーリー・ダンの名声を決定的なものにした。

なおデニー・ダイアスが本作を最後に正式にメンバーから外れ、スティーリー・ダンは名実共にベッカーとフェイゲンの2人だけのグループとなった。

1980年発表のアルバム「ガウチョ」を最後にスティーリー・ダン、すなわちベッカーとフェイゲンのコンビは翌年に活動を停止する。

「ガウチョ」も前作「彩(エイジャ)」に匹敵する大ヒットを記録、高い評価を獲得したが、前作の評価があまりにも高かったゆえに制作時のプレッシャーは並々ならぬものがあったようだ。

フェイゲンやプロデューサーゲイリー・カッツの完璧主義は前作を超え、演奏に寸分の狂いも許さず、一方ベッカーは麻薬に溺れレコーディングどころではなくなっていた。

前作に比べ、膨大な時間(2年半)と費用(日本円で1億円以上)がかさんだり、曲がミスで消されるなどのトラブルが頻発したが、完成度の高さは頂点を極めている。

スティーリー・ダンはこのアルバムを区切りに、長い休止期に入る。

1982年にドナルド・フェイゲンはソロ・アルバム「ナイトフライ」を発表。

スティーリー・ダン時代のサウンドにさらに磨きをかけ、以前に劣らぬヒットと高い評価を獲得した。

3M製32トラックのデジタル・マルチトラックレコーダーを使用した音響面のクオリティの高さも絶賛され、一時期はPAエンジニアのサウンド・チェックの定番となっていたほど「音のいいアルバム」といわれていた。

一方のウォルター・ベッカーは麻薬中毒から脱するためにハワイに移住。

1985年にチャイナ・クライシスのプロデューサーとして音楽界に復帰した。

その後はフェイゲン、ベッカーともどもさほど目立った活動をすることはなかったが、1993年にフェイゲンのソロ・アルバム「KAMAKIRIAD」をベッカーがプロデュースしたことをきっかけに二人での活動を再開する。

そして同年に「スティーリー・ダン・フィーチャリング・ウォルター・ベッカー&ドナルド・フェイゲン」名義でライブツアーを開始、翌年には初来日も果たした。

このツアーの模様は公式のライブ盤として発売されている。

1996年にも再び世界ツアーを行ない、同年に発表したベッカーのソロ・アルバム「11の心象」をフェイゲンがプロデュースしている。

2000年、スティーリー・ダン名義としては「ガウチョ」以来20年ぶりとなるスタジオ・レコーディング・アルバム「トゥー・アゲインスト・ネイチャー」を発表。

全米6位の大ヒットを記録し、同年のグラミー賞では最優秀アルバムをはじめ4部門を獲得、「業界受けするアーティスト」といわれるスティーリー・ダンの名声が未だ衰えていないことを見せつけた。

2001年にロックの殿堂入りを果たし、授賞式ではモービーがプレゼンターを務めた。

2003年には、「彩(エイジャ)」がグラミー賞殿堂入りを果たしている。

2017年9月3日、ウォルター・ベッカーの死去が、ベッカーのオフィシャルサイト上で発表された。67歳没。

当初死因等の詳細は発表されていなかったが、11月16日にベッカーの妻デリアにより、死因については急激な進行の食道癌であったことが公表された。

癌は毎年受けていた健康診断で発見され、化学療法による治療を行っていたものの、進行が早く発見から4ヶ月も経たないうちに死去したという。

ドナルド・フェイゲンは追悼声明で、大学時代からの長年の友人でありバンドメイトでもあったベッカーを回想するとともに、スティーリー・ダンとして作り上げてきた音楽を、自分ができうる限り続けていきたいと語った。

ベッカー死去の翌週、バンドの継続を続行して同年10月から短期のアメリカ国内ツアーと、ドゥービー・ブラザーズとのジョイントライブをイギリスで3公演開催する事を発表した。

ベッカー亡き後初のツアーは10月13日、オクラホマ州タッカービルでの公演でスタートした。

<wikipedia 調べ>

Steely Dan - Kid Charlemagne(1976)


エアプレイ(Airplay)はアメリカのAORユニットである。

スタジオ・ミュージシャン、プロデューサーとして活躍していたデイヴィッド・フォスター、ジェイ・グレイドンの二人が仕事先で意気投合し、デモテープを制作、その後1980年にアルバム『ロマンティック』を発表した。

二人の人脈を反映して、参加メンバーにはジェフ・ポーカロ、スティーヴ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサー、デヴィッド・ハンゲイト、ビル・チャンプリン、トミー・ファンダーバークら西海岸の大物ミュージシャンが名を連ねた。

実質的にはAORブームに乗った限定ユニットであり、アルバム1枚でエアプレイとしての活動は停止している。

デイヴィッド・フォスターは1985年に公開された映画『セント・エルモス・ファイアー』のサウンドトラックをプロデュースした。

のちに発売されたレコードにエアプレイ名義で「ストレスト・アウト(クロース・トゥ・ジ・エッジ)」が収録されている。

ヴォーカルは上記のファンダーバークではなくプレーヤーのピーター・ベケットが務めている。

1993年にはジェイ・グレイドン名義のアルバム『エアプレイ・フォー・ザ・プラネット』が発表されている。

<wikipedia 調べ>

Airplay - After The Love Is Gone (1980)

(1979年、Earth, Wind & Fire 「I Am」のためにDavid Foster、Jay Graydon、および Bill Champlinによっ制作)

ジョージ・ベンソン(George Benson, 1943年3月22日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ出身のジャズ・フュージョンを中心に活動しているギタリスト、歌手。

幼少の頃よりプロの道を目指す。1963年、ジャック・マクダフ(ブラザー・ジャック・マクダフ)のバンドに加入。

初期のベンソンは、泥臭いソウル・ジャズを演奏していた。

1964年、マクダフのサポートを得て、The New Boss Guitarでバンド・リーダーとしてもデビューする。

1968年には、マイルス・デイヴィスの初のエレクトリック・ジャズ作品マイルス・イン・ザ・スカイ (Miles in the sky) のレコーディングに参加。

ジャズ・ギターの演奏スタイルは、ウェス・モンゴメリーやジョー・パスらの影響がうかがえる。

初期のソウル・ジャズから、1970年代後半にはフュージョン系に転じた。

1976年にワーナー・ブラザース・レコードに移籍、この年に発表したアルバムBreezin' (ブリージン)はプロデューサーにトミー・リピューマを迎え、彼の代表作となるほどにヒットした。

このアルバムに収録された「マスカレード (This Masquerade)」で、ヴォーカリストとスキャットを披露し、以後ヴォーカル曲も積極的に取り入れていく。

1980年の「ギブ・ミー・ザ・ナイト」ではクインシー・ジョーンズを制作に迎えた。さらに「ラブ・オール・ザ・ハート・アウェイ」(1981)や「ターン・ユア・ラブ・アラウンド」(1982)をヒットさせた。

やがてベンソンはカシーフと組んで、ダンサブルなブラコンのシングルも発表するようになる。

アルバム20/20(1984)等歌手として特化したアルバムも出している。

1980年代にはブラック・コンテンポラリーの歌手の一人としても認知され、ジャズから、より商業主義的な音楽を発売するようになった。

1984年には、「NOTHING GONNA CHANGE MY LOVE」(変わらぬ想い)を発表した。

1994年に"Turn Your Love Around"をサンプリングしたEAST END×YURIの『DA.YO.NE』が日本では流行ったが、作曲者のビル・チャンプリンらの許可は得ずに使用していた。彼らは使用料の支払いで和解している。

1996年よりGRPレコードに所属。

2006年にはコンコード・レコードのモンスター・ミュージックに移り、アル・ジャロウとの共作、Givin' It Upを発表。

2009年には音楽活動をほぼ停止していた、スモーキー・ロビンソンやビル・ウィザースらを作曲陣に迎え、Songs and Storiesを発表。

バックミュージシャンも活動を停止したTOTOの主要メンバー等豪華なメンバーを取り揃えている。

<wikipedia 調べ>

George Benson - Turn Your Love Around(1981)


TOTO(トト)は、アメリカ合衆国出身のロック・バンド。

1970年代のアメリカン・プログレ・ハードから誕生したグループの一つ。

デビュー作から、全米チャート上位にランクインするなど早々に開花。

特に4枚目のアルバム『TOTO IV〜聖なる剣〜』が1千万枚以上のセールスを記録し、「グラミー賞」で6冠に輝いた。

1976年にロサンゼルスでスタジオミュージシャンをしていたデヴィッド・ペイチとジェフ・ポーカロ を中心に発足。

2008年3月のボズ・スキャッグスとの来日公演を最後に活動を無期限に休止すると宣言し、公式ウェブサイトで7月23日に正式に解散を発表。その後ALSを患ったマイク・ポーカロの救済目的で、2010年7月にヨーロッパ各地で期間限定としてツアーを行った。

翌2011年9月には日本でもツアーが実現し、以降は多くの来日公演を重ねた。

2015年には9年ぶりのオリジナル・アルバムを発売するなど、事実上恒久的な活動を再開している。

一般的には、典型的なAORサウンド[7]と評されている。

また、商業的な成功と聴きやすいサウンドを有していることから、ジャーニーなどとともに産業ロックと形容されることがある。

実際に、そういった趣が色濃い曲も数多く、それゆえヒット曲が多いのも事実である。

作品全般を通して聴くと、ハードロックからプログレッシブ・ロック、ジャズ・フュージョンといった、さまざまなスタイルを内包している。

ロック評論家、渋谷陽一は、松任谷正隆がデビュー当時のTOTOについて「こういうサウンドを出したい」と発言したことを紹介している。

専任のボーカリストがいるにも関わらず、ギタリストのスティーヴ・ルカサーやキーボーディストのデヴィッド・ペイチがリード・ボーカルをとることが多い(実際、TOTO最大のヒット曲「Africa」はペイチのボーカルである)。

また、スティーヴ・ポーカロも、リード・ボーカルをとる曲が存在し、2005年加入のグレッグ・フィンリンゲインズも、キーボーディスト兼リード・ボーカルとしての加入で、『フォーリング・イン・ビトゥイーン』では、彼のリード・ボーカル曲も多くフィーチャーされ、ステージでは、休止中のペイチのボーカル曲を代行しているなど、ビートルズやキッスさながらに、演奏陣が歌うバンドとしても知られている(ただし、ビートルズやキッスには、専任ボーカルはおらず、全員が兼任ボーカルである)。

デビュー当時がちょうど、サウンド・エフェクター、シンセサイザーという音楽関連テクノロジーも飛躍的に発達し普及した時期とぴったり重なっていたこと、及び先進技術の恩恵を潤沢に受けられるロサンゼルスのスタジオミュージシャンからキャリアをスタートさせたことから、当時「スペイシー(Spacy) 」と音楽雑誌が称していた、空間的広がりに散乱するような華やかなサウンドで、ほぼ同時期にデビューしたボストン と並んで、この後1980年代のアメリカン・ロック・サウンドの雛形となったサウンドを提起した。

より具体的には、全体のエフェクトにリバーブやゲート・リバーブ、ギターには、コーラスなどを多用し、アンプに通さず直接ミキサーのインプットに入力した、クリスタル・クリーンなどと形容されるギターサウンド、ペイチのジャジーなピアノやオルガン、エレクトリックピアノ、そして、スティーヴ・ポーカロのブラス系を含む、煌びやかなシンセサイザー・サウンドは、正に1980年代サウンドの典型と言える。

ヒットを連発していた時期のTOTOにおいて、バンドの中心人物で、ドラマーのジェフ・ポーカロのリズムは重要だった。

ポーカロは、リズム・ヘリテッジの「スワットのテーマ(反逆のテーマ)」(1976年)にも参加した凄腕のドラマーだった。

基本的に16ビート調の曲が多いのだが、通常の8ビートや16ビートでも独特のハネとウネりがあり、それが初期のTOTOをTOTOたらしめていると言っても過言ではない。

特に顕著なのが「ロザーナ」に代表されるような3連ゴースト・ノートを多用する16ビートのハーフ・タイム・シャッフルである。

レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムやスティーリー・ダンでプレイしたバーナード・パーディから影響を受け、ボ・ディドリーのパターンも加え、独自にアレンジしたというこれらのリズムは、未だに多くのドラマーの課題となっている(実際、ジェフ自身も、スティーリー・ダンでプレイした経験がある)。

全員が、マイケル・ジャクソンなどの大物アーティストから依頼の多いスタジオ・ミュージシャンであり、TOTOの成功にも関わらず、スタジオ・ワークを縮小せず、精力的だったこともあり、1980年代には、ジャンル問わず、彼らの関わった作品では良くも悪くもTOTOのようなサウンドが量産されていた。

<wikipedia 調べ>

Toto - Georgy Porgy(1978)


ジノ・ヴァネリ(Gino Vannelli、1952年6月16日 - )はイタリア系カナダ人のシンガーソングライター。

ケベック州モントリオール生まれ。

父親がビッグバンドのミュージシャンという音楽一家の環境で育つ。

高校卒業後、カナダで最も権威のあるマギル大学で音楽を専攻し、その後ロサンゼルスに移り、A&Mレコードと契約。

1973年にアルバム「クレイジー・ライフ」でデビューする。

ジノの情熱的でソウルフルなボーカルと、キーボーディスト兼アレンジャーの兄・ジョー・ヴァネリが作るボサノヴァ、フュージョン色が濃いサウンドとの取り合わせは独特の世界観を持ち、時にはプログレッシブ・ロック的なコンセプト・アルバムも発表した。

歌唱力に加え、サウンド・クリエイト能力を合わせ持ち、"ミュージシャンズ・ミュージシャン"と賞される程の評価を得る一方、セールス的にはあまり恵まれなかった。

しかし、1978年に『ブラザー・トゥ・ブラザー』を発表し、「アイ・ジャスト・ワナ・ストップ」が全米4位、アリスタ・レコード移籍後の『ナイト・ウォーカー』からは「リビング・インサイド・マイセルフ」が全米6位を記録している。

1981年の「ナイト・ウォーカー」発表以降はジャズよりの音楽を探求し始め、現在でも精力的に活動を続けている。

<wikipedia 調べ>

Gino Vannelli - I Just Wanna Stop(1978)


いかがだったでしょうか。

ミュージシャンの生い立ちや、関係しているミュージシャンなど、知れば知るほど

面白いですね。

AORを代表する音楽シーンには、バンドはもちろんですが、プロデューサーやコンポーザーの力も大きく関わっています。

こうなってくると、次はジェイグレイドン特集、とかになるんでしょうかね!?

また記事にする日を心待ちにしていてください。

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