本気でAOR Night 特集!
音響チームが携わらせて頂いたイベント
本気でAOR Night で選曲されたものを中心に、ブログ記事にしてみました。
スタジオセレクションでもあるこちら、スタジオスタッフがどんな音楽に興味があり、どんな音楽を聞いているのか、という特集も先々でできたら面白いなと思っております。
不定期更新になりますが、どうぞよろしくお願いいたします!!
AORとは
AORとは、Album-Oriented Rock(アルバム・オリエンテッド・ロック)、Adult-Oriented Rock(アダルト・オリエンテッド・ロック)の略語であり、音楽のジャンルの一つである。
Album-Oriented Rock:アルバム・オリエンテッド・ロック
アルバム全体としての完成度を重視する、Album-Oriented Rock
米国では、「シングルチャートを意識したものではなく、アルバム全体としての完成度を重視したスタイル」の意味で「Album-Oriented Rock」の語も使用[1]された。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、ピンク・フロイドの「狂気」やイエスの「こわれもの」、ザ・フーの「トミー」、キンクスの「ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ」などが該当する。
Adult-oriented Rock:アダルト・オリエンテッド・ロック
アダルト現代音楽、Adult-Oriented Rock
「AOR」は1980年代の日本で音楽用語として用いられた。ボビー・コールドウェルの「Heart of Mine」が1988年に紹介される際、「Adult-oriented Rock」を「大人向けのロック」と解釈された。ボズ・スキャッグス[2]やボビー・コールドウェル、ルパート・ホームズ、スティーリー・ダン、クリストファー・クロス、1974年以降のシカゴなどが該当する。音楽性の近い音楽用語としては、クワイエット・ストーム[3]、ソフト&メロウ、アダルト・コンテンポラリー、アーバンなどがある。ボズ・スキャッグスはかつてルーツ・ミュージック志向のロックを扱っていたが、後年にTOTOを結成するスタジオミュージシャンらを起用した1976年発表のアルバム『シルク・ディグリーズ』がヒットして、「AC」シンガーとして知られるようになった。
※AC=アダルト・コンテンポラリー
<wikipedia より引用>
ボズ・スキャッグス
ボズ・スキャッグス(William Royce Scaggs, 1944年6月8日 - )は、アメリカのミュージシャン。1970年代後半から1980年代にかけて流行した、アダルト・コンテンポラリーを代表するシンガー。
1944年オハイオ州カントン生まれ。
少年時代をオクラホマ州やテキサス州で過ごす。
12歳のときにギターを始め、セント・マークス・スクールでスティーヴ・ミラーと出会う。
彼にギターを習いながらヴォーカリストとしてバンド活動を始めた。
2人は共にウィスコンシン大学に進み、大学時代もブルース・バンドを組んだ。
1960年代前半、白人によるリズム&ブルースが盛んだったイギリスのロンドンへ渡る。
いくつかのバンドでプレイした後、ソロとしてヨーロッパを遠征中スウェーデンのポリドール・レコードの目にとまり、1965年にデビュー作『ボズ』を発表する。
帰国後、サンフランシスコを拠点に活動し、スティーヴ・ミラー・バンドのファースト・アルバム『未来の子供達』とセカンド・アルバム『セイラー』にギタリストとして参加。
いずれの作品でも、一部の曲ではリード・ボーカルも兼任した。これで評価を得たボズは、1969年にアトランティック・レコードからアメリカでのデビューを果たすが、しばらくはセールスに恵まれなかった。
R&B色が濃い音楽を発表し続けていたボズであったが、1976年、ファンキーでクロスオーバー的な洗練されたサウンドの『シルク・ディグリーズ』を発表。
これが全米2位を記録し、500万枚以上を売り上げた。アルバムからも「ロウ・ダウン」(全米第3位)、AORのスタンダード曲「ウィ・アー・オール・アローン」の大ヒットを放つ(このアルバムに参加したセッション・ミュージシャンたちは、後にTOTOを結成)。
次作の『ダウン・トゥー・ゼン・レフト』、『ミドル・マン』も続いてヒットした。
1980年に、トヨタ・クレスタの初代モデルのCMソングに、「You Can Have Me Anytime」(邦題:「トワイライト ハイウェイ」)が採用された。
その後、ヒットチャートからはしばらく遠ざかっていたが、1988年発表のアルバム『アザー・ロード』の収録曲「Heart of Mine」が、そのミュージック・ビデオの効果もあり、翌1989年に大ヒット、カムバックを果たした。『アザー・ロード』は日本ではオリコン洋楽チャートで1988年5月30日付から通算3週1位を獲得した。日本では未だに根強い人気を誇っている。
ピーター・セテラがエイミー・グラントとデュエットした曲「Next Time (I Fall)」など、メローで大人向けのバラード音楽が流行し、ボズの「Heart of Mine」のヒットをきっかけに日本で、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)という語がその年の暮れに発生した。1990年のジャパン・ツアーに際して日本の広告代理店はAORという語とボズ=AORの代表という宣伝をテレビで流した。これにより、日本においてAORというひとつのジャンルを形成するに至る。なお、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)は日本独自の呼び方で、アメリカではAC(アダルト・コンテンポラリー)、MOR(ミドル・オブ・ザ・ロード)などと呼ばれる。
2003年の『バット・ビューティフル』以降はジャズ・スタンダードに傾倒を始め、ジャズ・セットでのツアーも行っている。
2013年、スティーヴ・ジョーダンをプロデューサーに迎え、メンフィスのロイヤル・スタジオで録音したアルバム『メンフィス』を429レコードよりリリース。3月23日付Billboard 200チャートで初登場17位を記録した。
<wikipedia 調べ>
Boz Scaggs Lowdown(1976)
Boz Scaggs - Hollywood
ネッド・ドヒニー(Ned Doheny、 1948年 - )はアメリカ合衆国のミュージシャン。シンガーソングライター。
AORサウンドを代表する一人。
本国での知名度は低いものの、日本では非常に人気が高い。
特に、代表曲「恋は幻(Get It Up For Love)」は、日本のバンド東京事変にもカバーされている。
チャカ・カーンに「恋のハプニング(What Cha' Gonna Do for Me)」を提供したことでも知られる。後に自身のアルバム「ライフ・アフター・ロマンス」でもセルフカバーしている。
<wikipedia 調べ>
Ned Doheny - Get It Up For Love(1976)
クリストファー・クロス(Christopher Geppert Cross、1951年5月3日 - )は、アメリカ合衆国 テキサス州サンアントニオ生まれのシンガーソングライター。
トレードマークはフラミンゴ。
1979年、アルバム『Christopher Cross』(邦題『南から来た男』)でデビュー。
デビュー時はコンサートもせず、素顔を公開していなかった。
これはクリストファー自身の意向によるものであった。
天使のようなハイトーンボイスで一躍AORを代表する歌手となる。
同アルバムとシングル『セイリング(Sailing)』は1981年のグラミー賞の五部門を独占。
とくに主要四部門(最優秀アルバム賞:Album of the Year、最優秀レコード賞:Record of the Year、最優秀楽曲賞:Song of the Year、最優秀新人賞:Best New Artist)の同時受賞はグラミー賞史上初の出来事だった(最後の最優秀新人賞を同時に受賞することが難しい。後に2003年のグラミー賞でノラ・ジョーンズが達成したが、最優秀楽曲賞は作曲者であるジェシー・ハリスに送られたため、同一人物での同時受賞は2015年現在もクリストファー・クロス一人である)。
この曲は、ビルボード(Billboard)誌で1980年8月30日に週間ランキング第1位を獲得。
1980年ビルボード誌年間ランキングでは、第32位。
翌年にはスティーブ・ゴードン(Steve Gordn)監督・脚本の映画「ミスター・アーサー(Arthur)」の主題歌「ニューヨーク・シティ・セレナーデ(Arthur's Theme (Best That You Can Do))」でアカデミー歌曲賞をバート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガー、ピーター・アレンとともに受賞。
「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」は、ビルボード(Billboard)誌で1981年10月17日に週間ランキング第1位を獲得。
1981年ビルボード誌年間ランキングでは、第12位。この曲は日本でも馴染みの深いナンバーであり、日本のオリコン洋楽シングルチャートで1981年12月7日付から6週連続1位を獲得した。
5歳~9歳の幼少期に、軍医だった父親の仕事の関係で日本(東京代々木)に住んでいたことがある。
<wikipedia 調べ>
Christopher Cross / All Right(1983)
Pagesは1970年代後半から1980年代初めにかけて活動していたアメリカのポップロックバンド。
バンドはリチャード・ペイジとスティーブ・ジョージで構成され、さまざまなスタジオ・ミュージシャンの支持を受けたボーカルとキーボードで構成。
Pagesはその洗練されたポップとジャズフュージョンのサウンドで高く評価されたが、グループは商業的な成功を収めず、3つのスタジオアルバムをレコーディングした後解散。
Pagesは、後にバンドMr. Misterを結成
ペイジとジョージは新たなメンバーにスティーブ・ファリスやパット・マステロットを迎えてMr.ミスターを結成、1984年にデビューした。
この直後、リチャード・ペイジはボビー・キンボールの後釜としてTOTOのボーカリストに、ピーター・セテラの後釜としてシカゴのボーカリスト/ベーシストに誘われた。
両者とも超大物バンドであり、ペイジにとっては大出世の話だったが、自身のバンドを続けるためにいずれも断っている。
1985年、2作目のアルバム「ウェルカム・トゥ・ザ・リアル・ワールド」からシングルカットされた「ブロークン・ウィングス」が全米1位を記録。
続くシングル「キリエ」も1位、アルバムも1位の大ヒットとなり、バンドはブレイクした。
しかし1987年の「ゴー・オン」は意欲作だったもののセールスに恵まれなかった。
このアルバムには、リチャード・ペイジたちが矢沢永吉に提供した「サムシング・リアル」をカバーしている。
1989年にスティーブ・ファリスが脱退。
バジー・フェイトンが参加し、次作「Pull」をレコーディングしたが、レコードレーベルがリリースを拒否し、お蔵入りとなってバンドは解散した。
なお、お蔵入りとなった「Pull」はその後2010年にリチャード・ペイジの自主レーベルからリリースされ、20年の時を経て晴れて日の目を見ることとなった。
その後、それぞれのメンバーはスタジオ・ミュージシャンとしての活動を再開した。
リチャード・ペイジはマドンナの「I'll Remember」の作曲を手助けしたのを機に著名なプロデューサー、パトリック・レナードとバンド「サード・マチネー」を組み、アルバム「Meanwhile」を1994年にリリース、その後はソロとして 1996年に「シェルター・ミー」を出すが、こちらもセールスに恵まれなかった。
2003年には、竹内まりやの「純愛ラプソディ」を英語でカバーしている。
また、2012年からはリンゴ・スターのリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドにもベーシストとして参加。
2013年2月に行われた日本公演では「キリエ」「ブロークン・ウィングス」などを披露した。
スティーヴ・ファリスは1997年にはホワイトスネイクのツアーにギタリストとして参加、その他にも2000年にはドン・ヘンリーのツアーに参加もしている。
スティーヴ・ジョージは1991年-1997年までケニー・ロギンズの音楽ディレクターとしての仕事をし、1999年にはジュエルのツアーに参加。それ以後はソロアルバムをリリースする計画をすすめている。
パット・マステロットはMr. ミスター解散後、キング・クリムゾンのドラマーとして活躍。
<wikipedia 調べ>
Pages - You Need A Hero(1981)
マンハッタン・トランスファー(The Manhattan Transfer)はアメリカ合衆国のジャズ・コーラス・グループ。男女各2人による4人編成。卓越したボーカル技術とハーモニーを持ちながらも親しみやすい音楽性でポップ分野でも人気を博している。
1969年に結成されるが、1971年にいったん解散する。
1973年にティム・ハウザーをリーダーとして、アラン・ポール、ジャニス・シーゲル、ローレル・マッセーの4人で再結成される。
ベット・ミドラーに認められ、1975年にデビュー作『Operator』を発表する。
1976年発売のカバー曲『タキシード・ジャクション(英語版)』で注目を集め、幅広いレパートリーと卓越したハーモニーとで人気を博する。
1978年交通事故で大けがをしたマッセーに代わり、1979年にシェリル・ベンティーンが正式加入して現在のメンバー構成となる。
同年、テレビ番組『トワイライト・ゾーン』の同名テーマ曲をジェイ・グレイドンのプロデュースでディスコ調にカバーし、これがヒットしたことで広く注目を浴びるようになる。
1980年にはウェザー・リポートのカバー曲『バードランド』でグラミー賞の最優秀ジャズ・フュージョン・ヴォーカル賞とヴォーカル編曲賞を受賞する。なお、1982年にはライヴでウェザー・リポートとの共演も行っている。
1981年には『ボーイ・フロム・ニューヨーク・シティ』がポップチャートでも大ヒットし、最優秀ジャズ・ヴォーカル賞など3部門でグラミー賞を受賞した。その後も1983年1985年1987年1990年にグラミーの主要な賞を獲得している。
日本では1977年に伊勢丹のCMソングとして、『女王陛下のお買い物』(作詞:伊藤アキラ、作曲:樋口康雄)を演奏し、1980年代前半にサントリーブランデーのCMに出演した。
頻繁に来日公演しており特に2000年からは毎年来日している。
来日公演のライブ盤や日本限定盤アルバムもいくつかリリースしている。
<wikipedia 調べ>
The Manhattan Transfer - Nothing you can do about it(1979)
Nothing You Can Do About It はジェイ・グレイドンとデビッド・フォスターの作品で、彼らのユニット「Airplay」のアルバムにも収録されている。
シカゴ(Chicago)は、アメリカのロックバンド。ロックにブラスを取り入れた形式のバンドとして先駆的な存在であり、同じ ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデュースしたバンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズやバッキンガムズ(英語版)などと共に“ブラス・ロック”と呼ばれた。
シカゴで結成されたが、プロ・デビュー後の活動拠点はロサンゼルスである。
1967年にデ・ポール大学の学生たちが中心になり、前身バンドである"ビッグ・シング"を結成。
1969年にジェイムズ・ウィリアム・ガルシオのプロデュースによりコロムビア・レコードからデビュー。
その後、"シカゴ・トランジット・オーソリティ(シカゴ交通局)"から"シカゴ"とバンド名を変えたが、これはシカゴ交通局からの苦情がきっかけであった。
バンドはデビュー・アルバムから3作連続で2枚組アルバムを発表。1970年にはシングル「25 Or 6 To 4(邦題: 長い夜)」が大ヒットした。
その後も「ぼくらに微笑みを」(日本では72年にヒット)「クエスチョンズ67アンド68」 「ビギニングス」「Does Anybody Really Know What Time It Is?(一体現実を把握している者はいるだろうか)」「サタデイ・イン・ザ・パーク」「ダイアログ」「俺たちのアメリカ」「愛のきずな」「君とふたりで」などを発表し、シカゴは人気ブラス・ロック・バンドとなる。
1972年の大統領選挙ではポール・サイモンらとともに、反戦候補のジョージ・マクガヴァンを熱心に支援したが、マクガヴァン候補は当選できなかった。
初期には政治的な歌詞を持つ曲が多かったが、徐々にその特徴は影を潜めた。74年のアルバムはブラス・ロックを放棄したかのような内容で、ロック・ファンを失望させた。
75年には「オールド・デイズ」などで一時的にブラス・ロックを復活させたが、その後はAOR、歌謡ポップス路線を歩むことになる。
1976年にはラブ・バラードである「If You Leave Me Now(愛ある別れ)」が全米ナンバーワンになった。77年には「朝もやの二人」もヒットした。
その後、バンドの中枢であったギタリストのテリー・キャスの拳銃暴発事故(自動式拳銃の薬室に残った弾丸の誤発射)による死亡、プロデューサーであったガルシオの解雇などによりグループの方向性は変化した。
<wikipedia 調べ>
Chicago - Hard To Say I'm Sorry(1982)
クインシー・ディライト・ジョーンズ二世(Quincy Delight Jones II、1933年3月14日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家、編曲家。1950年代から第一線で活躍を続け、グラミー賞をはじめとする音楽賞を多数受賞している。
ブラックミュージック界のみならず、アメリカのポピュラー音楽界における著名人の一人である。
また、米FOXテレビの人気コメディ番組MADtvの製作総指揮も担当している。
イリノイ州シカゴ出身。
少年時代にトランペットを学ぶ。
10歳の頃にワシントン州に転居。
そこで盲目のピアノ・プレーヤーの少年レイ・チャールズと知り合い、ともにバンド活動を始める。1951年、バークリー音楽大学を卒業後、トランペット・プレーヤーとしてライオネル・ハンプトン楽団[1] に参加。
そこでアレンジャーとしての才能を見出され、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンらジャズ界のスターのアレンジを手がけるようになった。
1957年にパリへ渡り、作曲・音楽理論などを学ぶ。
フランスのマーキュリー・レコード社長の知己を得てヨーロッパでも数々のビッグバンドを率いて活躍し、自身のバンドでも成功を収めた。
1964年には、マーキュリー・レコードニューヨーク支社の副支社長となり、同時に映画音楽の分野へも活動の幅を広げる。
1960年代からはプロデューサーとしても活躍し始め、1963年にレスリー・ゴーアの「涙のバースデイ・パーティー」をビルボード1位にしたのをはじめ、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラらのプロデュースを手がけた。
また映画「夜の大捜査線」や「ゲッタウェイ」のサウンド・トラックも評判となった。
テレビ映画、ドラマでは『鬼警部アイアンサイド』や『ルーツ』のサウンドトラックも担当した。
自身の作品でも数々のヒット作を残し、1978年にはファンキー・ディスコ調の『スタッフ・ライク・ザット』がポップ・チャートでもヒットした。
<wikipedia 調べ>
Quincy Jones - Ai no corrida(1981)
チャカ・カーン(Chaka Khan、本名:Yvette Marie Stevens、1953年3月23日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の女性R&B歌手。
驚異的な歌唱力で1970-80年代にR&Bの女王と呼ばれ、以降も精力的に活動。
非常にアクティヴな性格で、レコーディングの際、アレンジが気に入らないと、殴りあうこともあったらしい。
ホイットニー・ヒューストン、メアリー・J.ブライジなど、多くの女性歌手に多大な影響を与えた。女性歌手ではアレサ・フランクリンと共にR&Bを代表する存在と言われる。
芸名のChakaはアフリカの言語で「炎」「赤い」という意味。
本来は「シャカ」と発音するのが正しいようだが日本では「チャカ」で通っている。
Khanは最初の夫の姓。
実弟にシンガー・ベーシストのMark Stevens、実妹に、シンガーのTaka Boomがいる。
娘のIndira Khanもシンガー。
1973年、ファンクバンドルーファス(Rufus)のボーカルとしてデビュー。
翌年スティーヴィー・ワンダーが提供した"Tell Me Something Good"が大ヒットし、以降もヒットを連発した。
1978年には名プロデューサーArif Mardinの元でソロデビュー。
デビュー曲"I'm Every Woman"は後にホイットニー・ヒューストンがカバーした楽曲としても知られている。
1982年にはRufusが解散してソロに専念する。
解散ライブアルバムにボーナストラックとして収録された新曲"Ain't Nobody"がヒットし代表曲の一つになった。
1984年にプリンスのカバー"I Feel for You"(邦題「フィール・フォー・ユー」)が大ヒット(全米3位)。
ラッパー・メリー・メルを起用したヒップホップの先駆けとなる先進的なサウンドで、同年のデイヴィッド・フォスター作のバラード"Through the Fire"と共にヒットした。
1980年代後半以降は商業的に不遇だが、1989年発表のクインシー・ジョーンズプロデュースでレイ・チャールズとのデュエット曲"I'll Be Good to You"がR&Bチャート1位のヒットになった。
1992年のアルバムThe Woman I Amはグラミー賞・最優秀女性ソロR&Bアルバム賞を獲得した。
この頃はドイツに在住していたことがあり、一部の楽曲では現地のプロデューサーを起用している。日本では"Facts of Love"がトヨタ・RAV4のCMソングに使用された。